ひとりでもにんげん

旅好きなのにインドア派、一人でどれだけ遊べるか

【ロシア一人旅】ウラジオストク最後の朝

2016年 8月10日(水)

この日は朝から賑やかだった。りんごでも食べようとキッチン前のテーブルに座ると、先客が居た。同室のロシア人が朝食を食べていたのだ。髭もじゃで大男の彼が食べているのは、プラスチックのケースにいっぱいの海藻のようなもの。ロシア人もそういうものを食べるのか。

 

「買いすぎちゃってね」

 

ああ、やっぱり。どう表現すればいいだろう、文庫本を3、4冊ほど重ねたくらいの大きさがある容器いっぱいに、刻んだ昆布のような海藻と玉ねぎスライスを和えたものが入っている。一人分にしては明らかに多い。彼はそれをフォークで容器から直接食べていた。

 

「ここでもこういう海藻を食べるんだね」

「まあね。僕はベジタリアンなんだ。鶏肉くらいはたまに食べるけど」

「本当に? 肉を食べないロシア人がいるの?」

「うん。お酒も飲まないんだよ」

「へえ。それでもきみは大きいなあ」

 

自分の体躯を褒められた彼は嬉しそうに笑った。髭もじゃの口元がほころぶ。僕らの英語レベルは似たようなものだ。話していると落ち着いた。久々の会話だ。

 

「君も食べてくれ」

「え」

「日本じゃ海藻をよく食べるんだろう? 好きなだけいいよ」

 

そう言って彼は白い皿に海藻の塊をどさっと分けてくれた。一口食べてみる。なるほど、ベースの味付けは酢らしい。ご飯に合わないこともなさそうな味だが、単体で食べるのはややキツい。

 

そこへ、これまた同室に泊まっているフランス人がやってきた。肌寒い部屋でも裸で寝ていたのが印象的な、長髪の男だ。

 

「おはよう。なんだいこれは」

「ちょうどよかった。君も食べてくれ」

「いや僕は……」

「遠慮せずに」

 

髭もじゃロシア人によって新たな皿に海藻が盛られる。こうして朝の海藻パーティーが始まった。これが炭酸水と絶妙に合わない。

 

「ふん、なるほど。これはパスタに混ぜると美味いかもしれないな」

 

フランス人はやはり洒落臭いことを言ってくれる。まあそれも当然で、彼はフランスで料理人をしているのだそうだ。鉄道でここまでやって来て、これからフェリーで日本に行くのだという。

 

「フェリーで? 僕もそれに乗ってきたんだよ!」

「それじゃあ入れ違いってわけか。今日出発なんだ。君はこれからどこへ行く予定?」

「きみの国へ行くかもしれないし、モスクワへも行く。イルクーツクへも行くよ。バイカル湖を見たくて」

バイカル湖なら俺も行ったよ! あそこはいいぞ、泳げるんだ」

「泳ぐ?」

「ああ、冷たくて気持ちよかったぞ」

 

彼が体に毛布もかけず裸で寝ていたことを忘れてはならない。彼と僕の体温はおそらく次元が違う。

一方髭もじゃロシア人は仕事でウラジオストクへ来ているらしかった。そういえば昨日も夜遅くに電話をしていた。あれは仕事の用だったんだな。

 

「君らの会話を聞いてると思うんだけど、僕の英語は変じゃないかい?」

 

ロシア人が大きな体に似合わず不安そうに聞く。かわいいな! 変じゃない変じゃない。僕と同レベルだ。このフランス人は僕らより確かに英語が上手いけれど。

 

「ああそうだ、そういうわけで僕は早く荷造りしなくちゃいけないからこれで」

「あっ……」

「良い旅をな!」

 

フランス人が海藻から逃げた。残していったものが僕の皿に追加される。まあいい。これくらいは平らげてやろう。

しかし僕も今日がチェックアウトの日なのだ。いつまでも悠長に海藻を食べているわけには残念ながらいかない。一皿食べ終わると、僕は席を立った。

 

「じゃあ僕もこれで……」

「食べていってくれよ。食べられそうな人間はもう君しかいないんだよ」

 

なぜこの人はこれを食べようと思ったのだろう。もはやこの世の終わりのような顔で僕を見つめるのである。容器にはまだ半分以上の海藻が残っている。僕はチェックアウトの時間が近いということで説得して、その場を去った。

 

部屋で荷造りをしていると、向かいのベッドの宿泊客も動く準備を始めていた。行動時間がこうしてかぶるのは初めてだ。

 

「おはようございます。あなたたちはどこから?」

「韓国だよ。君は? 日本人?」

「ええ」

「ここへ来る前は日本にいたんだ! フェリーで渡ってきてね!」

 

そう言ってスマートフォンで「くまモン」の写真を見せてくれた。それにしてもあのフェリーの乗客は多いんだな! タイミング的に、もしかしたら同じフェリーに乗り合わせていたのかもしれない。

彼らはどうやら父親と息子のようで、二人とも表面に自らの国旗を小さく示したバイクのフルフェイスヘルメットを持っていた。バイクでの旅か。いいなあ。

 

「それで、どちらまで行かれるんです?」

リスボンだよ! ユーラシア大陸を横断するんだ!」

 

なんと……それは……。素晴らしい旅だ。当然危険も伴うだろう。気をつけて、とお互いに旅の安全を祈って、別れた。

 

もう一人別れを告げるべき人物がいるのを忘れちゃいけない。海藻の髭もじゃロシア人だ。僕がチェックアウトを済ませた時、彼はソファに座っていた。壁掛けのテレビで「フランス対セルビア」という渋いバスケットボールの試合を見ている。ちょうどリオデジャネイロオリンピックが開催されている時期だった。

……海藻の山はどうしたんだろう。

 

「やあ。僕はもう行くよ」

「うん。気をつけて。会えて嬉しかった」

 

固く握手をして、僕は宿を去った。いい宿だった。

 

今日チェックアウトをしたということは、今日シベリア鉄道に乗るということだ。そこで不安なのが当の切符についてだった。僕はネットで購入し、自分でプリントアウトしたいわゆるE-チケットを持っているだけだったから、本当にそれで列車に乗れるのか確認しておきたかったのだ。なのでまずはロシア鉄道の窓口へ聞きに行くことにした。

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シベリア鉄道の案内板。右上の時計は鉄道の運行標準時であるモスクワ時間を指している。ウラジオストクは13時19分。

窓口のおばさんは英語が通じない。そのため役に立つのは身振り手振りと、何よりも紙とペンだった。

「このチケットについて伺いたいのですが」

「……」

「この……出発時間の表記はモスクワ時間なんですよね」

「……」

「じゃあ……ここでの実際の出発時間は23時55分?」

「……」

 

おばさんは無言で時計のイラストを書いてくれた。仏頂面だが、それはロシア人なりのマナー。対応はちゃんとしてくれる。

 

「……ダー、ダー。わかりました。スパシーバ」

「……」

 

おばさんは少しだけ微笑んでくれた。確認は終了し、一安心。どうやらチケットも本当に使えそうだ。

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シベリア鉄道の路線図。広い。長い。大雑把。

チケットをバックパックにしまいこみ、再びぶらぶらする。歩くにしても今日はフル装備だから足取りが重い。駅のコインロッカーを使うという手もあるにはあったが、ロシアのコインロッカーだ。信用できるだろうか。僕にはできなかった。

ということで移動も最小限に、駅に隣接するフェリーターミナルへ今日もやってきた。フェリーの出航が近く、そこには多くの見物人が集まっている。

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▲ターミナル内の土産物売り場に並んでいた代物。コメントは差し控える。

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▲フェリーを一人眺めていた老婦人。お若い頃はさぞかし。

今朝海藻から逃げたフランス人もこの船に乗っているのだろうか。デッキを眺めてもそれらしい人影は見つからない。見かけたら手を振れたのに。

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▲乗客が全員乗り込むと、タラップが上げられた。

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▲エンジンを唸らせ、岸から離れていく。汽笛は鳴らない。

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あっさり行ってしまった。これからまた丸二日間かけ日本へ行くのだろう。帰りたいという気持ちはまだ湧かない。それどころかもっと遠くへ行きたいという気持ちが、ゆっくりと走る船を見ていると湧き上がってくる。

 

これからどうしようか。列車の時間は夜中の0時近くだとわかった。つまりまだほとんど一日をウラジオストクで過ごせる。列車に向けて体力を温存しておきたいので、昨日のように散歩をするというのも気乗りしない。何せこの荷物だ。

 

そうだ。駅前のバス。あれに乗ろう。駅の前には無数の路線バスが停車していた。そのどれかに乗って、あてもなくどこかへ行くというのはどうだろう。駅前にあれだけのバスが止まっているということは、再び駅前へ帰って来られるということだ。運賃も安いだろうし、ウラジオストク最後の日はそうして過ごそう。

 

だがこの時の甘い判断によって、僕は途方に暮れかけることになる。


つづく