【ロシア一人旅】ウラジオストクで迷子になるのは簡単だ
簡単だ。適当なバスに乗ればいい。
2016年 8月10日(水)
宿はチェックアウトした。そのため荷物はフル装備で重い。それにウラジオストクはこれが最終日なので、せっかくだしバスでも乗っておくか、と軽い気持ちでバスの旅を敢行した。これが甘かった。
路線を調べるとかそういうことは一切せず、目の前に止まったバスに乗り込んだ。各バスにはルートを示す番号が割り振られていて、このバスの番号は「7T」だ。それは一生忘れない。なぜならそれに乗って迷子になったから。
バスの運賃は一律20ルーブル、およそ40円。バス停一つぶん乗ろうが、終点まで乗ろうが、その料金は変わらない。だから僕は「20ルーブルで街を一周して帰って来られるなら安いな」と思ったのだ。駅前にバスが集まるということは、最後はここに帰ってくる。そう思ったが、これが違った。
さて、そんなことも知らずに嬉々としてバスの一番後ろの席に乗った僕はのんきなものである。バスは知らない坂道を登り、降り、座っているだけで見たこともない景色が見られるのだから心は昂っていた。
まあそれはこんな何でもない地味な景色だったかもしれないが、観光客が立ち入らない、生活が根付いた光景を見られるのは一人旅の醍醐味だ。もう海は見えない。完全に内陸に入った。バスに乗って30分ほど経っただろうか。とある停留所に止まると、運転手のおじさんに降りるよう促された。乗客は僕一人である。これはやっちまったな。とはいえここから駅に向かうバスもあるだろう。僕は20ルーブルぶんのコインを運転手に手渡し、見知らぬ土地に降りた。
しばらくバスを観察したけれど発車する気配がない。写真の右の方に写っている小さめの乗り合いバス(マルシュルートカと呼ばれるものらしい)は時折発車しているが、あれに乗ればそれこそどこへ行くかわかったものじゃない。
そこでようやく僕は理解した。そうか、こりゃ迷子になったな。
ところが僥倖もあった。どうやら停留所のそばに市場があるらしいのだ。シベリア鉄道に乗り込むために買い出しをする必要があったから、これは助かった。ここで食料やら何やらを揃えよう。それをしまい込めるだけのカバンも持っている。不安な気持ちはひとまず脇に押しやって、市場へ入ることにした。
これが見事な場所だった。果物に野菜。肉や魚。乾物類に日用品。様々な店がひしめき合い所狭しと何でも揃っている。しかも観光客は皆無。僕は異国に一人放り出された状況に心を躍らせた。
まずは果物を揃えることにした。少年が一人で番をしている店先には、プラムが1kgあたり150ルーブルという値段で売られている。僕はロシア語の数字を1から3までしか言えないから、ひとまず最小単位の1kgを注文する。袋いっぱいに詰め込まれたプラムと引き換えに、150ルーブルちょうどを少年に手渡すと、握り拳にいっぱいの小銭が返ってきた。まただ。またお釣りが多い。コントか。昨晩のカフェで起こったのと同じ現象だ。貧乏旅行者なのでありがたく頂戴し、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
バックパックを背負っているため、一目で地元の人間ではないとバレてしまう。ここまでやって来る観光客も珍しいのだろう。お店の人にやたらと声をかけられた。ロシア語だがなんとなくわかる。
「どこから来た? 中国人か? ベトナム人か?」
「日本人だ」
「ああ、日本人」
「旅行者か」
「そう、旅行者だ」
「旅行? こんなところに?」
「学生か? うちで何か買わないか。見ていってくれ」
そこは衣類を扱う店だった。まだ旅を始めて5日目だ。下着の替えはいらない。
続いて山ほどのビスケット、血の色をした太いサラミを調達し、ひとまず最低限の栄養素は揃えた。重い液体や傷みやすいパンなどは駅近くのスーパーマーケットで買えばいい。目下の問題はその駅にどうやって帰るかだった。
そしてとある店に入った。カップ麺や保存食の類を主に売っている店だ。個人が経営しているこうした小さなお店は盗難防止のためか商品が全てガラスケースに入っている。客が欲しいものを店の人に伝えると、ガラスの向こうの商品をキープしてくれるという仕組みだ。お金を払うまでは商品を手に取ることはできない。
適当に面白そうな、キリル文字の踊るパッケージの保存食を選んでいく。インスタントのマッシュポテトに、よくわからないヌードルを二種類選び、購入した。こんなところにもあった、馴染み深い日清のカップヌードルは高級品だったので買わなかった。正確な値段は覚えていないが、150ルーブルはしたと思う。
そこの店主らしきお姉さんは威圧感の無い、ほっそりとした人だった。この人になら相談できる。そう踏んだ僕は、バスでここまで来たはいいものの帰る手段がわからなくなってしまったことを身振り手振りで伝えようとした。もちろん英語は通じない。電波も弱く、Googleマップで位置を示すのにも時間がかかる。メモ帳に電車の絵を描いてみたり、僕自身で列車の真似をしたりして、帰りたい場所はどうにか伝えた。伝わったと思いたい。
しかしお姉さんは困惑した顔のままだ。どう伝えればいいのかわからないのだろう。それともそもそもこちらの主張が伝わっていないか。
お互い途方に暮れているところへ、常連らしきおじさんが現れた。おじさんとお姉さんはロシア語で何か話すと、僕の方を一瞥した。するとおじさんは「ついて来い」と手で示し、すたすたと店を出ていってしまう。僕は振り返ってお姉さんに手を振ると、不安げな表情のままのお姉さんから、控えめなバイバイが返ってきた。
僕は早足でおじさんの後を追う。細い道を行くとそこには、木陰でタバコを一服しているどっしりとしたおばさんが立っていた。無地の青い服が印象的だ。おじさんとそのおばさんが何やらロシア語で話すと、二人して僕の方を見る。おばさんが気だるげに手招きするので、今度は青シャツのおばさんに着いていく。
「あそこにバス停があるの、見える?」
市場を出ると、おばさんは英語を話した。確かにあった。陸橋のずっと向こうにバス停が見える。
「あれに乗ればいいのよ」
「ありがとうございます!」
教えてもらった通りのバス停にたどり着き、ちょうど止まっていたバスに乗り込む。一番後ろの席を確保すると、バスは動き始めた。ふう。一時はどうなることかと思ったけれど、これで駅へ帰れるぞ。
バスは幹線道路を進む。停留所で乗客を増やしつつ、進んでいく。おや、ここは見覚えのある道だ。港を見渡せる展望台を訪れた時に渡った道路じゃないか。ここを真っ直ぐ行っては駄目だ。ここを真っ直ぐ行くと橋を渡る。駅へはその方角じゃない……!
バスが橋を渡り始めた。もう駄目だ。
さらにウラジオストクにもう一つある大きな橋、ルースキー島連絡橋を渡り始めた。これはマズい。非常にマズい。青シャツのおばさん! とんでもないことになっちゃいましたよ!
窓の外をミサイル艇が不穏な速さで走っていく。そんな光景にも不安を覚える。どうしたものか考えた末、僕は対向車線を走るバスの番号を覚えることにした。それに乗ればひとまずは再び橋を渡って本土に帰れるはずだ。通り過ぎるバスは全て15番。15番だな……どこかで降りて折り返し15番のバスに乗るんだ……。
いくらか冷静さを取り戻しバスを観察する。それにしてもこのバスの乗客は自分と同じくらいの年代の男女が多い。なぜだろう。単なる偶然だろうか。
それもそのはずで、橋の向こう、ルースキー島にはFar Eastern Federal Universityという大学があったのだ。極東連邦大学とでも訳すのだろうか。しばらくするとバスの左手側に、大きな建物の連なりが見えてくる。乗客のほとんどはそこの学生のように見えた。
バスがとある停留所に止まった。大学施設のそばだ。何人かが降りるのにくっついて、僕も下車した。終点まで行ってしまったら帰れるかどうかわからない。動くなら今しかない。幹線道路を爆走し、橋を二つ渡っても、運賃は変わらず20ルーブルだった。
向かい側のバス停には中学生くらいの少年少女が集まっていた。きっと学校の見学でもしたのだろう。彼女らなら駅までどう帰ればいいか、教えてくれるかもしれない。
「ヘイ!」
「イエス?」
「英語が喋れるのかい?!」
「少しだけど」
助かった。ここで降りて正解だった。一団の中の女の子が数人、珍客の相手をしてくれた。
「ウラジオストクの駅の方へ帰りたいんだ。どうすれば帰れるか、わかる?」
「うん。ここのバス停から出るバスに乗って、そうだなあ……この停留所まで行けばいいよ。駅までは乗り換えなきゃいけないけどね」
「駅までじゃなくても、近くまで行けたらいいんだ。もしかして15番のバス?」
「そう!」
彼女は僕のメモ帳にそのバス停の名前を書いてくれた。しかもキリル文字でなくアルファベットでだ。
「Izumrud……ええと、これはなんて読むのかな」
「これはね」
数人の女の子が合唱してくれた。
「イズムルド!!」
「イズムルド! ありがとう! スパシーババリショーィ!」
本当に助かった。彼女たちに最大級のお礼を言って、ちょうどやってきたバスに急いで乗り込んだ。黄色いバスだ。忘れもしない。扉が閉まると、手を振る彼女らはどんどん小さくなっていった。
こうして僕は無事、駅周辺まで帰ってくることができた。バス三回分、合わせて60ルーブルの迷子体験だった。ありがとう構ってくれた皆さん。今でも鮮やかな思い出だ。
その夜は昨晩と同じカフェで、最後の晩餐と洒落込むことにした。ウラジオストクとは今日でお別れ。深夜の便でイルクーツクへ向けて発つのだ。今夜のうちにカロリーを摂っておかなくちゃならない。
注文したのはボロネーゼとモヒート。カルボナーラ以外に読めるメニューがこれしかなかった。これでもかとチーズがかかっているのがにくい。それから、やたら男前の店員さんに「これは何?」と聞いて「これは……チキンの……」とわかりやすい説明をくれた謎メニューを頼んだ。
運ばれてきたのはチキンナゲットの親玉のような料理だ。鶏肉をチーズとともに揚げたようなもので、美味しいに決まっていた。完璧な最後の晩餐となった。
3品合わせて970ルーブル。今にして思えば一晩分の宿代よりも高くて笑ってしまう。でも、それだけいい店だった。
お代に1000ルーブル札を出すと、お釣りとして50ルーブル札が一枚返ってきた。まただ。またお釣りが多い。そのことを店員さんに指摘しても静かに首を振るばかり。この風習は何なのだろう。旅人にはお釣りを多く返すべきという文化でもあるのだろうか。それでも二晩連続でこうした対応をされるのは忍びなくて、僕はこっそり差額の20ルーブルをテーブルの上に残し、店を出た。
そんな、一人の旅行者にも安心できるお店、カフェ「ホフロマ」をよろしくお願いします。ウラジオストクへお越しの際はぜひ。