ひとりでもにんげん

旅好きなのにインドア派、一人でどれだけ遊べるか

【シベリア鉄道一人旅】モスクワへ

2016年 8月19日(金)

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シベリア鉄道の車内で目覚めるのも今日で最後だ。予定通りなら昼にはモスクワへ着き、今夜のベッドに荷物を下ろし、丸四日ぶりのシャワーを浴びているはず。そわそわしているせいか、それとも鉄道内での生活を名残惜しく思っているせいかいつもより早く起床した僕は、日の出を拝むことができた。昇った太陽が地表を覆う霧を照らし、散らしていく。隣のベッドのニーナ婆さんはまだ眠ったままだ。

 

いつも通り汗拭きシートで顔を拭いて、車両先頭部に位置するトイレの手洗い場で口をゆすぎ、熱い紅茶を目覚ましにした。数日ぶりにTシャツも新しいものに着替えた。汚れていない白いシャツだ。そして貴重品袋の中身をチェックし、紛失したものが無いかどうか確かめた。問題はなかった。パスポートもお金も、滞在証明も全て揃っている。

 

ニーナが目を覚ましてから朝食にした。思えば鉄道を走っている間は、一人で食事を済ますということがほとんどなかった。誰かと一緒にお茶を啜り、時には食材を共有したりして、窓際に備え付けられた小さな食卓を囲っていた。一人でいながら孤独を感じなかったのはそのせいに違いなかった。

この日の朝食はビスケットとサラミ。それだけで胃は満足した。それにしてもこのビスケット、ウラジオストクで買ったものなのだがまだ半分も消費しきれていない。当分朝食の心配はしなくて済みそうだ。

 

朝8時頃、昨日一緒に遊んだ少年がまた部屋にやってきた。ところが今度は一人ではなかった。彼よりも一回りくらい大きな男の子を連れている。見たところ、二人は兄弟ではないらしい。

小さい方の少年は昨日と同じく僕の隣に座りタブレットをいじり始め、歳上らしい方(小学校高学年に上がるか上がらないかといったくらいだろうか)はドア付近に立ったまま、僕と会話をしたがった。当然ロシア語なので全てには答えられなかったが、こちらが日本人であることは伝わったようだ。

少ない語彙を駆使して、彼の名前も聞いてみた。ところが複雑な名前すぎてカタカナに起こすことができない。僕の名前は単純なので、教えるとすぐ呼んでくれた。名前を呼び会えないのがもどかしい。途切れ途切れの回線を使ってグーグル翻訳に助けを求めたりもしたけれど、ほとんど使い物にならなかった。「スカジーチェ」がどうやら「教えて欲しい」を意味する言葉なのだということは理解できた。この単語はこの先でも使えそうだ。

 

iPhoneで撮った日本の写真を見せたり、これまでに辿ってきた道のりを地図でなぞってみたりとなるべく言葉に頼らないコミュニケーションを図った。その中でも最もウケたのは「手遊び」だった。両手で犬を作って吠えさせたり、蜘蛛を歩かせてみたりしたが、一番反応が良かったのは両手で作ったカエルに「パマギーチェ(助けて)!」と叫ばせた後、真っ二つにするというネタだ。これは本当にウケた。もう一回もう一回と何度もせがまれた。自分でもできるようにとカエルの作り方を教えてみたものの、子供の小さな手と指ではなかなか難しかったようだ。

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▲少年たち。ロシア人もピースをする。

 そろそろモスクワに到着するというタイミングで、新たな二人組と挨拶をした。中国から来たという女子大学生だ。同じ車両に乗っているのでなんとなく顔を合わせてはいたのだけれど、言葉を交わすのは初めてだった。一人はなんとロシア語を話せるということで、親切にも少年たちとの通訳を買って出てくれた。彼らはそれぞれ8歳と6歳だったということが判明した。手遊びを教えた少年は僕の連絡先を知りたがっているらしく、メモ帳にメールアドレスを走り書いて渡した。

 

ついに列車はモスクワに入った。それまでは広大な平原や森くらいしか映らなかった窓の外に、いきなりたくさんの建物が見え始めるのですぐわかる。これまでお世話になった乗務員さんが「いよいよモスクワに到着しますよ!」というようなことをアナウンスし、それに合わせて子供たちが「ウラー!!」と大声ではしゃいだ。ウラー、なんて本当に言うんだ……。

 

モスクワ時間午前11時14分、列車は予定時間通りに目的地ヤロスラフスキー駅に停車した。

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▲モスクワに着いてから初めて先頭車両をはっきり目にした。今までお世話になりました。

まとめておいた荷物を全て身につけ、列車を降りた。久々のフル装備は重く、モスクワの空気は暑かった。同室のニーナと別れを告げ、旅の安全を祈り、少年たちやその家族とも手を振り合った。貴重な話し相手になってくれた日本語のできる中国人お姉さんとその連れ、先ほど知り合ったばかりの女子大学生二人組に誘われ、五人で記念撮影をすることになった。一人でいるのは僕だけだったせいか、構図の真ん中を勧められて少し気恥ずかしかった。

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シベリア鉄道0km地点の碑。これでウラジオストクから9288kmを走破したことになる。

 記念撮影を終えると各々は散り散りに別れ、いよいよ一人になった。僕も行動を始めることにする。ここでの宿はモスクワのランドマーク、赤の広場の近くに取ってあった。駅前をうろついてから、まずは赤の広場を目指すことにした。

 

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▲駅前。スターリン様式の建築物が目立つ。

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▲なんと地下道にダイドー自動販売機がそのまま置いてあった。中身もそのまま、値段だけがロシア語表記だ。

 到着した駅から宿までは地図上でせいぜい2kmほどの距離だったが、荷物を全て背負った状態でこの暑さの中を歩いて行く気にはなれなかった。そう、モスクワの夏もちゃんと暑い。そこで日差しを避けるために地下鉄を使ってみることにした。

 

地下鉄の駅へ伸びる地下道の出入り口には、メトロを意味する赤い「M」の看板が立っている。駅まで辿り着くのは簡単だった。が、券売機のようなものは見当たらず、どうすれば切符を買えるかがわからない。ひとまず柱に寄りかかって、人の流れを観察した。ターミナル駅そばの地下鉄駅だというのに、自分と同じようないかにもな観光客は少ないように思えた。誰もが地元のロシア人に見える。皆慣れた手つきで、改札口らしき機械に電子カードをかざして入場している。僕もあのカードが欲しい。一体どこで手に入るのか……。

日本でのSuicaに当たるようなそのカードは、どうやら「トロイカ」と呼ばれるものらしかった。よくよく見れば「トロイカ」の宣伝ポスターが駅構内のいたるところに貼られてあったのだ。早速窓口に並んだ。分厚い透明なガラス板に、客と係員が会話できるよういくつもの穴が開けられている昔ながらの窓口だ。

 

「こんにちは。この……トロイカ? って奴が一枚欲しいのですが」

「…………」

 

どっしり太った窓口のおばさんは無表情かつ無言のまま、こちらをキッと見ている。ほとんど睨みつけるような目つきだ。僕のロシア語がまずかったのだろうか。

 

「ええと、トロイカトロイカ。一枚。お願いします」

「…………」

 

おばさんは変わらず無言のまま、ガラス向こうの受付台を指で叩いた。まずはお金を、ということなのだろう。

トロイカが一体いくらなのかもわからなかったが、こういうものはカード代に加えてデポジットやらチャージ料金やらが必要なものだろう。ガラスの隙間を通してとりあえず100ルーブル札を一枚、おばさんに渡す。すると。

 

「…………」

「!」

 

なんとおばさんは真新しいトロイカこちらへ投げて寄越した。それで僕の番は終わりだった。一瞬呆気にとられたが、背後にはまだ何人もの客が並んでいる。目的は果たしたのでおばさんに一応礼を言い、窓口を離れた。

特に公共サービスで働いている時のロシア人は不機嫌に見えがちなのだが、このおばさんほど強烈な人は後にも先にも現れなかった。なまじこちらが日本の過剰に丁寧な接客サービスに慣れているから、印象に残りすぎたのかもしれない。

 

とにかくこれで地下鉄を利用できる。改札口にトロイカをかざすと、難なくゲートを通ることができた。

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トロイカ。読み取り方式は裏面のQRコード。ナイスデザイン。

赤の広場の最寄駅は「Охотоный ряд」駅。オホトニ・リヤトと読むらしい。列車の進行方向を確認し、青い車両に乗り込んだ。ドア付近のポールを掴み、立ったまま乗客たちをそれとなく観察する。老人、子供連れ、若者。車内で会話をする人はあまり居ない。スマートフォンをいじる人も少ない。僕もそれにならい、iPhoneはポケットに入れたままにしておいた。

 

モスクワの地下鉄はなかなかに不親切で、駅に停車してもその駅名を示すプレートなどは配置されていないことが多かった。車内アナウンスも一度だけで、しかも「間もなく◯◯駅」の「◯◯駅」のタイミングで老朽化したドアが轟音を立てて開くため、駅名を聞き取ることはほとんどできなかった。ただでさえロシア語の発音は複雑だというのに。

 

なんとか目的の駅で降りることに成功し、長大なエスカレーターを昇る。出口には改札が設置されていない。後にわかったことなのだが、モスクワの地下鉄料金はどこまで乗っても一律なのだ。一駅でも、終点まで乗っても、運賃は35ルーブルの安さで済む。

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▲オホトニ・リヤト駅前の大通り。向こうに赤の広場が見える。

大通りを渡り(確か横断歩道は無かった気がする)、物々しい警察車両を横目に赤の広場へ入場した。今までどこへ隠れていたのか、ここへ来ていきなりあらゆる国の言葉が耳に入ってくる。英語で何度も動画を撮り直すユーチューバー、拡声器で案内するイタリア人ツアーガイド、大量の中国人旅行客、それよりもほんの少し肌が浅黒いベトナム人、そして日本人も見かけた。小綺麗な格好の日本人一家もいれば、ガイドをこき使う老人の一団もいた。あらゆる言語がひしめき合っていた。

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近々広場でコンサートか何かが開催されるようで、その準備に向けて石畳の半分以上が立ち入りできない状態になっている。そのせいもあってとにかく人と人との距離が近い。貴重品を盗まれないよう注意しながら、広場の奥へと進む。

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▲俗に言う「クレムリン」の塔と城壁。

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▲コンサート会場建設中で広場はこの狭さだった。

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▲日本も参加するようだ。

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見えてきたのは聖ワシリー大聖堂。赤の広場といえばこれ、といったイメージがある。誰もがカメラやスマートフォンを頭上に掲げ、この玉ねぎ状の屋根の写真を撮っていた。見栄え良く撮れるアングルには特にたくさん人が集まっていて、撮影者の頭がフレームインしないようにレンズを上に向ける必要があったのだ。

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僕もそうした。しかしこれを撮っている間も頭の中はシャワーのことでいっぱいだ。早くシャワーが浴びたい。時刻は13時。宿のチェックインまではあと一時間ある。僕は大聖堂から少し離れ、城壁のふもとの芝生に腰と荷物を下ろした。買っておいたペットボトルの水で一息つく。ここにもリテイクを何度も繰り返すユーチューバーが居て、少しうんざりした。