ひとりでもにんげん

旅好きなのにインドア派、一人でどれだけ遊べるか

【シベリア鉄道一人旅】イルクーツク - モスクワ 三日目

2016年 8月18日(木)

列車がゆっくりと停まる音で目が覚めた。身につけっぱなしの腕時計を見るとまだ朝の6時前だ。どうやらエカテリンブルクの駅に到着したらしい。同室の人々はシーツを被ったまま眠っている。僕もまだまだ寝ていたかった。それを止める者は誰もいないので、再び目を閉じた。列車が再び動き出すよりも前に意識を失った。

 

二度目の起床を迎えたのは朝8時前だ。既に活動を始めていたアンドレイ氏が朝の挨拶とともに「今何時だ?」と聞くので、僕はその通りに答えた。その直後、iPhoneの時間表示が朝の7時を指していることに気づいた。そうか、エカテリンブルクのあたりでまた一つタイムゾーンを跨いだのだ。腕時計の針を戻しながら、アンドレイに訂正しなくちゃなと思ったが、彼は洗面所へ歯を磨きに行ったっきりしばらく戻ってこなかった。

 

エカテリンブルク時間で8時頃、アンドレイが部屋に戻ってきた。「チャイにするぞ!」の一言で朝食会になった。チャイとはつまりお茶のことだ。人数分の熱い紅茶を淹れ、黒パンや鶏ハム、それに生のきゅうりがテーブルに並ぶ。そこでアンドレイが気付いた。

 

「……あれ? さっきお前8時って言わなかったか? 今8時……」

「ごめん、あれはノボシビルスク時間だったんだ」

「アイアイ……」

 

許された。

 

アンドレイ、ニーナに加え長らく部屋に姿を現さなかった一匹狼氏もひょっこり戻ってきて、四人揃っての朝食となった。一体この人は今までどこにいたんだろう。謎だ。

お腹を半ばまで満たすと、アンドレイ氏の質問攻めが始まった。ベッドに二人並んで腰掛け、お茶を飲みつつ談笑する。

 

「お前、旅費は?」

 

こんなもんだ。ルーブルだと15万、日本円で30万……と誤解の無いようにメモ帳にゼロを並べた。最終目的地であるイギリスをページの左端に、日本を右端に書き、矢印で繋ぐ。

 

「ほお。帰りは飛行機なのか。フライトはどこのだ?」

 

エミレーツのはずだよ。

 

ビジネスクラス?」

 

そんなわけ無い。もちろんエコノミーで、しかもトランジット有りだ。そう答えるとアンドレイは「エコノミー! エコノミー!」とはしゃいだ。

 

「エコノミーはいくら?」

 

だいたい3万5000ルーブル。日本円でおよそ7万。イギリスと日本の間の空間に乗り換え先であるドバイを書き加えた。

 

「直航便だとどれくらい?」

 

確かその倍くらいの値段になる。7万ルーブル。さすがにそれには乗れないね。ほう、とアンドレイは唸った。

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▲カメラを向けるとノリノリでピースサインを作ってくれたアンドレイ氏。ロシア人もピースをする。なんとなくスケートがうまそう。

昼前、廊下側の窓辺で一匹狼氏と共に外を眺めていたアンドレイが 「こっちへ来い」と手招きするので寄ると、「写真を撮れよ」と言う。「そろそろ俺の故郷なんだ」

 

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言われるがままにカメラを外へ向けた。なんともロシアっぽい妙なデザインのマンションと、ソ連時代から何も変わっていなさそうなアパートが目に入ってくる。ペルミというところらしい。

駅に停車すると、アンドレイと一匹狼氏はそこで降りて行った。二人と固く握手をした。アンドレイは別れ際、こちらに向けて実に自然なウインクをしてくれた。これは彼にしか使えない技だ。僕が女なら惚れていた。ロシア語で別れを告げ、乗降口へ向かう二人を見送った。

ふと空になった上段のベッドを見ると、中身の入った黄色いビニール袋がフックにぶら下がっているのを見つけた。一匹狼氏が使っていたベッドだ。おそらく忘れ物だろう。袋の中身は丸々としたハムだった。どうしようかねえ、という風にニーナと顔を見合わせてから、僕は一応ホームに降りてその持ち主を探してみた。駅舎の方まで向かったが結局見つからず、停車時間もわからず心細いのですぐ部屋へ戻った。ニーナはあらあらといった感じのニコニコ顔で、じゃあ二人で分けようか、というようなことを言った。

当然ロシア語なので本当にそう言ったかはもうわからない。

 

二人が去り、すっかり静かになった客室。昼食は一匹狼氏が残していったハムを早速切り分け、日本の登山用品店で買ってこの日までとっておいたフリーズドライのトマトチーズリゾットと、残り少ないりんごを食べた。

 

夕方(とは言っても日はまだまだ高いが)6時前、僕らの部屋に小さな侵入者がやってきた。まだ小学生にもならないくらいの男の子だ。片手にタブレットを重そうに抱えて、ドアの手前で佇んでいる。

ニーナが話しかけると、少年は中へ入ってきた。タブレットの液晶画面が真っ黒のままだ。それを見るにつけ、「日本製のものならこいつに相談するといい」とニーナは僕を指差した。でもねえニーナ婆さん、lenovoってのは日本の企業では……。

なんてことはない。タブレットはただの充電切れだった。持参したモバイルバッテリーにケーブルを挿し込むと難なく画面は点灯し、少年は僕のベッドの上でタブレットをいじり始めた。カエルのゲームがお気に入りのようだ。こちらも負けじとiPhoneを見せびらかして、別々のゲームで遊んだ。

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▲自分の家のようにくつろぐ少年。そこ僕のベッドなんですけど……

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iPhoneを貸したらすぐ自撮りをし、すぐ返してくれた。ませている。

タブレットの充電がやや溜まったところで少年の母親らしき人が現れて、申し訳なさそうに彼を回収していった。もう少しいてくれても良かったのに。

 

19時。キーロフに着いた。夜はまだ来ない。少しだけ雨が降り、すぐ止んだ。ホームに降りて散歩程度に身体を動かし、何も買わないまま部屋へ戻った。

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 列車が動き出すと、珍しくニーナ婆さんがしきりに僕に話しかけてきた。何かを訴えている。身振り手振りから、僕の携帯電話を使いたいらしいということがわかった。一瞬ためらったが冷静に考えて、鞄の中で眠っているSIMフリースマートフォンを手渡した。

僕が普段使っているiPhoneは特定のキャリアでしか使えない規格だ。俗に言うSIMロックがかかっている状態にある。そのため、日本にいる間に格安のSIMフリースマートフォンを買って、ロシアでは現地で購入したSIMカードを使い通信していたのだ。インターネット回線はそれで一応使えていたものの、電話がちゃんと機能するかどうかはこの時点まで試していなかった。ニーナが電話番号を入力し、端末を耳に当てる間僕は密かに緊張していた。

すぐにニーナが電話の向こう側と話し始めたのでほっとした。当然といえば当然なのだろうけれど、ちゃんと動いてくれて良かった。もしこれが通じず、iPhoneの方を貸してくれと頼まれたら困ることになるところだった。これはロシアでは使えないのだ、なぜなら……だなんてロシア語で説明できるはずもないし、説明できたとしたってニーナは納得しないかもしれない。現地のSIMを使えるようにしておいて本当に良かった、と思えた出来事だった。

 

ニーナの目的地はモスクワからさらに向こうのベラルーシだ。電話もベラルーシの親戚にかけたものだったらしい。電話を終えるとニーナは僕の手の甲を叩いてお礼を言ってくれ、その上100ルーブル札をお小遣いにくれた。僕は遠慮してみたが、ニーナは譲らなかった。ありがたく頂戴して、お礼に二人分の紅茶を淹れることにした。そしてそのまま夕飯を広げる流れになった。時刻は20時になろうとしていた。

 

夕飯は昨晩食べそこなったロシア製カップ麺だ。日本でいうカップ焼きそばで見かけるような四角い容器の中に、ただ塩辛い麺が入っている。味は駄菓子屋に並ぶおまけじみたカップ麺に似ていた。これを毎日食べたらお腹が痛くなるよ、と言っていたイワンの言葉は正しいのかもしれない。健康のためにりんごで栄養バランスを整えた。最後の一つだった。

 

夕飯を終えたところでまたタイムゾーンを跨いでいたことに気づいた。最後のタイムゾーン変更。いよいよモスクワ時間だ。iPhoneの時間表記は腕時計よりもマイナス2時間、つまりまた18時台を過ごさなきゃならないようだった。しまった。夕食が早すぎた。

そんな時、例の少年が再び部屋へやってきた。夕方に襲撃してきた淡い金髪の彼だ。ちょうどよかった、暇つぶしに付き合ってもらおう、となけなしの日本製お菓子で買収し、ベッドに腰掛けてゲームをした。ニーナは早くもベッドへ横になり、いびきをかき始めた。確かに、今日は一日が長かった。気持ちの上でも、物理的にも。

21時が近づき、うとうとしだした少年は再び母親に回収され(少年一家は僕らの二つ隣の部屋に陣取っているらしかった)、僕も眠ることにした。明日の今頃はまだ見ぬモスクワの寝床で横になっているんだろうか。幸いまだ存在している貴重品袋を抱いて、目を閉じた。