【シベリア鉄道一人旅】イルクーツク - モスクワ 二日目
2016年 8月17日(水)
この日は8時に目が覚めた。起きても特にすることがなく、そこからさらに一時間ほどベッドに横たわってまどろんだ。そうしているうちに列車は止まる。ノボシビルスクの駅だ。手持ちのiPhoneの時間表記によると、ここでまた一つタイムゾーンを跨いだらしい。時計の針は2時間戻せばいいようだ。再び朝の7時が始まった。僕が起床したのは8時だったはずなのに。
結果として早起きとなってしまった僕は、列車を出て新鮮な朝の空気を浴びた。肌寒い。朝早いせいか降車する人は少なく、シベリア鉄道の乗客相手の物売りの姿もまだない。結構大きな駅なのに。
ただ、キオスクには焼きたてと思しきパンがずらりと並んでいた。たまにはこんな朝食もいいなと思い、店内で暇そうにしているおばさんに向かって適当に「あれ、あれ」とショーケースの向こうを指差すと、肉の詰まった薄いパイを手渡された。100ルーブル。まだ温かく、一日のスターターにはもってこいだった。
車内に戻ると、同室のおばあさんが僕にお菓子をくれた。金色の紙に包まれた、太く短い棒状のチョコレート菓子。貴重な甘味だ、ありがたい。おばあさんの言うことには、これはクラスノヤルスクの特産品なんだそうだ。特産品かどうかは僕のロシア語力ではわからないが、やたらクラスノヤルスク、クラスノヤルスクと連呼していたから多分そうなのだろう。僕も何かお返しに渡せそうなものがないかあらゆるポケットから探して、一粒のキャラメルを献上した。日本産であるということを強調しておいた。
列車が再び動き出したのは、8時40分頃のことだった。
昼になると再び列車は止まった。今日は停車駅が多い。なかなかに大きな駅だ。駅舎の屋根に並べられた赤いキリル文字を見るに、ここは「バラビンスク」というところらしい。ロシア内のどの辺りなのかは見当もつかない。いい天気で、ここでは長袖のジャケットは明らかに不要だった。半袖のTシャツ一枚になり、外に出る。
すっかりお馴染みになった魚の燻製や果物、クワスの売り子に加え、ここでは色とりどりの布を腕いっぱいに引っ提げたおばさんたちが、特に女性の乗客に向かって話しかけていた。生地も売り物なのだろう。本物かどうかはわからないが、動物の毛皮のようなものを提げた売り子も数人いる。
だがそれよりも目を惹いたのは駅構内に展示されている巨大な蒸気機関車だった。列車に関する知識が無いためいつ頃のものなのか、これが実際にシベリアを走っていたものなのかは不明だがその巨大さは誰の目にも明らかで、その車輪の直径は子供の背丈よりも大きいくらいだ。
屋台で買ったアイスクリームを舐めながら巨大機関車を遠巻きに眺めていると、昨日出会った例の中国人二人組に出会った。お二人さんもやはりこの機関車が珍しいようで、こいつをバックにしたツーショット写真を撮るよう要求された。お安い御用だ。幸い逆光でもない。何パターンかパシャパシャと撮ってあげると、やはり流暢な日本語でお礼を言われた。
お姉さんが売り子の群れを指差して言う。
「あの果物いっぱい売ってますね!」
「果物? ああ、木イチゴ」
「そうそう。日本じゃあまり見ないでしょ?」
確かに大々的に売られているところはあまり見ないけれど、たいていのスーパーの片隅にはこっそりと売られている気がする。うーん……と返答に迷った。それにしてもお姉さんの言う通り、夏のロシアでは木イチゴは本当にポピュラーな果物のようだ。
列車は再び出発した。僕はここで本当の意味での「地平線」というものを生まれて初めて見た気がする。視力の限界まで、見渡す限りの草原なのだ。しばらく見惚れた後で「これは記録しなきゃ」と慌てて撮ったから写真にはうまく映らなかった(木の生えている部分が見えてしまっている)が、そんな光景がしばらく続いた。
景色に気が済めばお昼寝タイムだ。今日口にしたものといえばミートパイとチョコレート、それにアイスクリームと紅茶のみ。体力は温存しなければ。
目を覚ますと列車はまたまた駅に止まるところだった。本日三度目の長い停車。 眠気覚ましに外へ出る。オムスクというところらしい。時計の針は17時を指している。何か冷たいものが飲みたくなったのでキオスクで紙パックのりんごジュースを買い、ついでに今夜のメインディッシュとなるカップ麺も手に入れた。合わせて80ルーブル。
例の中国人二人組とここでも遭遇した。お姉さんの方が何やら片手に持っている。
「これ安かったよー。向こうで売ってた」
「さくらんぼ! いくらでした?」
「30ルーブルだった!」
紙コップにいっぱいでそれは安い。僕も買おうかな。
「ひとつどうですか?」
「いいんですか! ありがとう、いただきます」
お姉さんと眼鏡の兄ちゃん、そして僕で一斉にさくらんぼを一粒頬張った。
「……酸っぱい!」
「酸っぱい!! 私これダメ!」
兄ちゃんは「これはこれで」といった雰囲気で黙々と咀嚼している。が、酸っぱそうな口元を隠せていない。
「だから安いんだー」
まあ間違いなくビタミンか何かを摂取できた味がした。
そんなタイミングで眼鏡の兄ちゃんの方が突拍子も無いことを僕に聞いた。
「アーユーブライダル?」
ブライダル? ああ、結婚か。なんだ、この兄ちゃん僕と英語のレベル同じくらいだぞ。
「ノー、ノー」
「ノー?」
結婚なんてしていたら一人でこんな旅ができるはずがない。そういうあなたはどうなの? とからかい返してみた。
「いや……うーん、彼女は友達だから……」
昨日と同じくご両人から煮え切らない返事が返ってくる。なんとも憎めない二人だ。
オムスクでは客室に同居人が加わった。これで備え付けの四つのベッドは全て埋まったことになる。最後の乗客は淡い金髪に淡い碧眼の、壮年のロシア人おじさんだった。賑やかなその人は、なんと少しだけ英語を話せた。シンプルでわかりやすい英語を。
「お前、歳は?」
21だ。
「21? それはそれは。どこから来た? 日本人か?」
その通り。
「なるほど。学生で旅行者ってわけだ。シュトゥデントゥーリストだな」
それはいい響きだ。シュトゥデントゥーリスト。辞書登録しておこう。
その後も「どうやって旅費を稼いだ?」「日本じゃ何してるんだ?」「写真を見せてくれよ!」と簡単な英語で矢継ぎ早に質問が飛び交う。
iPhoneを手渡して、日本で撮影した写真を彼にどんどん見せていると、保存してあった「アイドルマスターシンデレラガールズ:スターライトステージ」のキャラの画像が突如現れたりして冷や汗をかきかけたが、「これが日本のアニメだ。俺たちのカルチャーだ」の一言でなんとかその場をしのいだ。アイドルマスターシンデレラガールズ:スターライトステージが一体何なのかご存知ない方は各自検索してほしい。
「向かいのベッドのおばあさんは「あなたそんなに喋れる口があったのね……!」とでも言いたげな驚きの表情を見せ、嬉しそうに僕の肩を叩いてくれた。
このタイミングで初めてお互いの名前が判明した。おじさんの名はアンドレイ。おばあさんはニーナ。もう一人の寡黙おじさんは相変わらず部屋に帰ってこない。謎である。
アンドレイは客室の空気を一つにした。「お茶にしよう! お茶だよ! チャイ、チャイ!」の一声でお茶会が開かれることになった。各々が食料品を取り出す。
「お茶、持ってないならやるぞ」とアンドレイ。
「持ってるよ、ほら」
「アールグレイか」
「日本のお茶?」とニーナ。いやいや、これはウラジオストクのスーパーで買った紅茶だ。そういえば日本で買っておいた粉末の日東紅茶(アップルティー)を持っていたっけ。いい機会なので一袋ニーナに渡した。
「いや、やっぱりコーヒーにしよう」とアンドレイ。
「夜に飲むと眠れなくなるから今飲め。コーヒーだ」
ありがとう。
「パンもやるよ」と白い食パンを取り出すアンドレイ。ありがたいが僕にはこれがある、とオムスクで買ったカップ麺を見せると「それは夜な!」と一蹴された。19時は夜ではないらしい。まあ確かに外はまだ明るいが。
コーヒーを頂き、パンまで頂き、さらにアンドレイ氏はゆで卵と生のきゅうりまでくれた。かなり太くて短く、ズッキーニのような風貌だが、味はまさしくきゅうりだ。
「このきゅうりは俺が育てたんだ」
きっとダーチャで育てたんだろうと僕は想像した。ダーチャというのは大抵のロシア人が持つという別荘のことだ。アンドレイがダーチャの庭で土いじりをする様が頭に浮かぶ。
「日本人はきゅうりを食べるのか?」
「食べるよ。でも形はもっと長細い。ロシア人も生で食べるんだね」
「おうよ。ああ、誰か塩を持ってないか?」
「私持ってるよ」
と答えたのはニーナ。ポーチから薬を入れるような小瓶を取り出し、白い粉をティッシュの上にトントンと出して見せた。本当に塩かこれ? 恐る恐る小指の先っぽで掬って舐めてみる。ああ、塩だ。
塩をつけるとゆで卵やきゅうりは格段に美味しくなった。ニーナおばあさんは豚の脂身のベーコンまで取り出した。僕も負けじとサラミを出すと、「それは夜な!」とアンドレイに制止された。
アンドレイは自分で塩を要求しておきながら、「俺は塩はダメなんだ」と首を横に振った。そう言ってシャツを捲り上げ、お腹にある手術痕を僕に見せた。
「医者に止められてる」
一体何があったのかは聞けなかった。
イルクーツクで会ったイワンもそうだったが、アンドレイ氏もカップ麺を食べることには否定的な姿勢を見せ、「食べても一週間に一つまでな!」と念を押した。確かにロシア製のカップヌードルはやたら塩っ辛く、その言い分も理解できた。ここではカップ麺よりも即席マッシュポテトの技術の方が進んでいるようだ。
久々の賑やかな食卓が終わり、夜になった。「それは夜な!」と忠告を受けたメニューがいくつもあったがお腹はもういっぱいだ。歯を磨いて、素直に寝ることにした。
消灯後の部屋の外に見える景色は、なんとも幻想的だった。針葉樹林の地表付近を、一面の白いもやが覆っているのだ。霧とも違う。高さは1メートルもないだろう。分厚い苔のように、薄い雲海のように、地面を白いもやが覆っていた。
その様を満月が照らしている。まるで狼でも出そうな光景だった。ひょっとしたらその辺を歩いているんじゃないかと探してみるが、そうそう見つかるものではない。ニーナとアンドレイが静かに眠る中、僕は一人でその青白い風景を眺めていた。