【ロシア一人旅】イルクーツク市内を散歩する
2016年 8月15日(月)
リストビャンカからのバスは16時半出発の予定だったが、5分ほど早く発車した。座席が満員だったのである。僕が一番最後に乗り込んだ乗客で、既にトランクはいっぱいだった。バックパックは膝の上に乗せるしかない。運良く窓際の席で、外の景色がよく見えた。
このバスの運転手がまあ飛ばす飛ばす。片側一車線の道をとにかく激走し、3台連続の追い越しは当たり前で、同業者のバスも抜かす、大型の観光バスも平気で抜かし、その数秒後に対向車線を車が駆け抜けていくというありさまだった。
幹線道路なのだろうが、アスファルトで舗装されていない部分もあり、そこはさすがにややスピードを緩めながら走った。砂埃が舞い、車体がガタガタと揺れる。往路もここを通ったのだろうか。だとしたらよくこんな悪路の中で眠れたものだ。
森を抜け、郊外を抜け、街に入るとそこはかなり活気に溢れた場所に見えた。心細い一夜を駅で過ごした直後に抱いた印象とは異なっていて、すぐにでも街を歩いてみたい気分になった。ところどころで市場が開かれているのをバスの中から見かけた。下車したらまずはあそこに向かってみよう。
道路の真ん中を走るトラムがかわいい。緑の多い街並みで、歩いていて心地いい。行き交う人々は皆薄着で、シベリアの短い夏を楽しんでいた。
市場には何もかもが並んでいた。衣類、食料品、そしてクワス売りのタンク。どこを向いても活気がある。シベリア鉄道搭乗に向けて、ここでりんごを買うことにした。果実の大きさ、それに色にもよるが、1kgあたり大体60から80ルーブルとかなり安い。その中でも赤くてテニスボール大のりんごを選び、最小単位の1kgを買った。60ルーブル。サブバッグが重くなる。
事前に揃えておくものは果物だけでいいと踏んだ僕は、ここでの買い物はそれだけにした。サラミはまだ残っていたし、厚焼きビスケットも紅茶も、3日間くらいじゃ消費しきれないほど残っている。それに途中下車できる駅で色々調達できると学んだ。重い水も、出発前に駅のキオスクで買えばいい。荷物の重量を抑えることは大事だ。
市場を冷やかしていると、通りすがりのロシア人に「今何時だ?」という風に話しかけられることがあった。ロシア人は腕時計をしないのだろうか、どの街でもたびたびこういうことがある。肌の浅黒いその男に向けて「18時半らしいですよ」と時計を見せると、礼を残して去っていった。そんなやりとりをする都度、心の内では「この人が盗人だったらどうしよう」とビクビクしなきゃならないのが旅行者の辛いところだ。
それにしても18時半か。そろそろ夕飯にしよう。
あてはあった。鉄道内で会ったベルギー人が、「イルクーツクならあそこのベルギー料理屋がなかなかよかった。お前も行くといい」と教えてくれた店があったのだ。ベルギー料理というのもイメージが湧かないし、とにかく僕はレストランを探すのが苦手だったから、そこに決めない理由がなかった。
道を行くと、ベルギーの国旗を掲げた店が見つかった。ここだろう。店の中に入る頃には、すっかり腹が減っていた。トラムも使わず、実はかなり歩いていたのだ。荷物を全て身につけたまま。
店内は落ち着いた雰囲気で、疲れた体にふかふかのソファが嬉しかった。渡されたメニューに英語表記が並ぶのもたいへんありがたい。値段も手頃で、そしてWi-Fiがかなり速い。これはいい店を教えてもらった。
マッシュルームのスープと、名前は覚えていないが、ひき肉とマッシュポテトをオーブンで焼いたもの、そしてアッサム茶を頼んだ。これで760ルーブル。
はじめに運ばれてきたマッシュルームのスープは意外なものだった。具がキノコなのではなく、スープそのものがマッシュルームでできているのだ。キノコをフードプロセッサーか何かで細かくしたものをベースに、かなり濃度の高いスープにしているらしかった。残念ながら写真は残っていない。あまりにも空腹で、さっさと平らげてしまったためだろう。
冷静さを取り戻したあとのメニューはちゃんと記録していた。肉とマッシュポテトのオーブン焼き。ポテトに隠れて見えないが、その下の階層にはぎっしりとひき肉が詰まっている。肉と芋。人体を構成する上で最も重要な食材だ。ひたすらに肉と芋の味だったが、美味しかった。紅茶もティーポットで丸ごとくれるのが嬉しい。
ここの店員さんがとても可愛かった。とても可愛くて素敵だった。まず制服が可愛かった。僕が誤ってコショウか何かの蓋を床に落としてしまい、その店員さんに拾ってもらったのだが、そのことを謝るとその人は「いいのいいの」と人差し指を一本立てて軽く左右に振り、制すのだった。そんな仕草が似合う人は初めて見た。
そういうわけで(どういうわけなんだか)色々とお腹いっぱいになった僕は会計に800ルーブルを出すと、50ルーブルのお釣りを手渡された。まただ、またお釣りが多い。これで何度目だ。そのことをどうにか指摘すると、その可愛い店員さんも、やたら男前のウェイターも、「いいのいいの」と笑うのだった。この風習は本当に謎だ。ティーポットの傍に差額分のコインを置いて、店を出た。
店を出たのは夜が近づく20時頃。市場は閉まりかけていて、人もまばらになっていた。これからどうしようか。駅に向かうにしたって、列車の出発は午前1時過ぎだった。散歩でもして時間を潰そう。
ゆっくりゆっくりと、駅の方へ向かって歩く。つまり、渡らなくちゃいけない大きな川の方に向かってだ。本当に綺麗な街並みで、ここはまたいつかちゃんと見に訪れなくちゃなと思ったくらいだった。街の一部だけを歩いて満足するのはもったいない。
21時になるとようやく夜らしくなって、群青色の空に月も上がった。ほぼ満月だ。こんな時間だというのに街角をスケートボードで暴走する少年たちには出くわしたし、花壇と噴水が素敵な公園にはベビーカーを連れた親子連れもいれば、イヤホンを耳にはめて踊るお姉さんの姿もあった。ベンチは夜を楽しむ人でほぼ埋まっていた。かなり治安がいい街なのかもしれない。
そうしてゆっくり街を突っ切る頃には22時になっていた。川にかかった大きな橋を渡り、駅へ向かう。その上を歩いて渡るのは僕一人だけだ。大型の軍用トラックが道路側を通り、幌付きの荷台に乗っていた兵士たちが訝しげにこちらを見ていたのを覚えている。歩いて渡るような長さの橋ではなかった。
右側に連なる明かりがイルクーツクの駅。また列車に乗り込めば、今度こうして歩く街はもうモスクワだ。モスクワ。ここからがまた遠いぞ……。