【シベリア鉄道一人旅】イルクーツク駅での心細い一夜
2016年 8月14日(日)
午前1時。イルクーツク駅のホームに降りた。気温は低くはっきりと寒い。肌寒いってレベルじゃない。吐いた息が白くなるほどだ。ジャケットのジッパーを首元まで締め、背中をバックパックで温めて、駅舎へ向かって歩く。
さてどうしようか。到着時刻を間違えた上に宿などを予約していない僕は、ひとまず駅周辺を散策することにした。鉄道内でベルギー人とロシア人の兄ちゃんに教えてもらったホテルがある。まずはそこを探そう。
駅を出ると、そこにはたくさんの人が集まっていた。タクシーの運転手だ。車のヘッドライトに照らされ、無数のタバコの煙が夜空に白く舞う。バックパッカーが一人現れたと見ると、彼らは一斉に群がってきた。
「タクシーに乗らないか」
「ホテルまで」
「リストビャンカまで」
「バイカル湖まで行くんだろう?」
そんなことを言っているようだった。こんな時間に営業しているところを見るにそのほとんどが白タクだろう。言葉に乗せられやすやすとタクシーに乗ればどこへ連れられていくかわかったものじゃない。彼ら一人一人に「ニェート」と首を横に振って対応すると、最後に一人のおじさんが残った。
「じゃあどうするんだお前? もう宿はないぞ」
そんなことを言われている気がした。確かにそうだが、ここでタクシーに乗れるほど僕は強者ではない。無視をして駅真向かいの歩道に出る。そこには赤いネオンの目立つホテルが一軒建っていた。
「こんばんは」
中へ入ると二人のお姉さんがフロントで談笑しているところだった。
「一人なんですが」
「ごめんなさい、もういっぱいなの」
つらい宣告だ。しかしここでごねても仕方がない。他の宿を探そう。
辛うじて繋がるネットで、付近の安宿を検索した。歩いて行けそうな範囲に一軒だけ見つかる。地図を頼りに一人街を行くと、そこはどうやらアパートの中にあるようだった。
20分ほど歩いて辿り着いたのは住宅街だ。僕は泥棒にでもなったような気持ちでアパートに入った。重く冷たい鉄の門には鍵がかかっていない。コンクリート造りの階段を何段か上がったが、ここはどう見ても普通の住居だ。しかも防犯のためかドアノブのない部屋が多い。ここに宿を見出すのは難しい。そう思って僕はアパートを出た。時刻は午前2時である。
他に行くあてはないので駅に戻ることにした。そうするしかなかった。あそこならひとまず屋根と、座れる場所がある。こんな寒い中で野宿なんてしたら冗談じゃなく死んでしまう。今夜は駅で夜を明かそう。シベリアのど真ん中、見知らぬロシアの裏通りを、痩せこけたアジア人が一人歩いていく。
そんな人間が怪しがられるのは当然で、巡回中のパトカーが一度僕の横で止まった。青いパトランプに丸いヘッドライトがかわいい、白いバンタイプのロシア製パトカーだ。助手席に座るトム・ハーディ似の警官に睨まれた時は色々と覚悟したが、日本人の習性か軽く会釈をするとパトカーは再び巡回に戻っていった。早く屋内に入らなければマズいと強く思った。
駅に戻ったのは2時半を回る頃である。シベリア鉄道のベッドが恋しい。なんなら自宅のベッドが恋しい。旅の最中そう思ったのは後にも先にもこの時だけだ。
余談だがロシアの駅には必ずと言っていいほど出入り口に金属探知機のゲートが設置されている。イルクーツク駅も例外ではなかったが、そこを通ってブザーがけたたましく鳴っても何も言われないのだ。屈強そうな警備員が二人、ゲートの傍に立っているのに何も言わない。当然、バックパックフル装備の僕が通ってもピーピー警報機が反応するのだが、特になんの対応もされなかった。あれに意味はあるのだろうか。
しかし警備員が立っているのはそれだけで頼もしい。何なら下手な安宿よりも駅はセキュリティがしっかりしているとも言えた。僕はこれから鉄道を待つのだという顔をして、待合室のベンチに腰掛けて、重い荷物を背中から降ろした。疲れを感じていた。とにかくシャワーが浴びたい。
そうだ、シャワーが必要だ。一人でじっくり使えるシャワーが必要だ。バスタブが会ったっていい。そう思った僕は、ネットで今夜の宿を探した。それはつまり次の目的地を決めるということにも等しい。しかし心は既に決めていた。バイカル湖のほとりにしよう。この心細い夜を無事越えたらバイカル湖へ向かい、久々の熱いシャワーを浴びて、風呂へゆっくりつかり、一人部屋のベッドで思いきり横になるのだ。
ネットは便利だ。ウラジオストクでSIMカードを手に入れておいてよかった。おあつらえ向きの宿が見つかり、半ば宙に浮いた頭ですぐ予約した。こんなところでクレジットカードを取り出すのにはかなり勇気が必要だったけれど。
イルクーツクとバイカル湖の地理的な位置関係を説明しておこう。例えばGoogleマップで「イルクーツク」と検索すると、地図上ではすぐそばにバイカル湖があるように見える。出発する以前は漠然と僕もそう思っていた。イルクーツクに行けばバイカル湖を観光できる、と。
しかし実際には違う。バイカル湖はとても広い湖だが、イルクーツクから最も近くにある湖のほとりは「リストビャンカ」という街なのだ。イルクーツクからそこまでは、直線距離で70kmほど離れている。
僕はそのリストビャンカのホテルを予約してしまったから、もう行くしかない。そして調べた結果、どうやらイルクーツクからリストビャンカまでを結ぶシャトルバスが、街の中心部にあるバスターミナルから出ているらしい。点と点が線で結ばれた。今日すべきことが決まった。駅からバスターミナルへ行く。バスでリストビャンカまで行き、シャワーを浴びる。
三日間シャワーを浴びていなかった。髪の毛は色々なものでベタついている。頭の中はシャワーでもういっぱいだ。自分がそんなに綺麗好きだとは知らなかった。
シャワーのことばかり考えながら駅のベンチでじっとしていると、突然隣の席に人が座った。酒と汗のツンとする匂いが漂う。浮浪者風のおじさんが三人、僕の隣に並んで座ったのだ。カバンを握りしめる手に自然と力が入る。別におじさんたちを盗人と決めつけるわけではないが、自衛のためだ。
しかし……そうか、この人たちも僕と同じような思考で駅に辿り着いたのだろう。この寒い中、安全に夜を明かすならここしかない。何より人がいる。警備員だって巡回している。
しかしそのおじさんたちは三人とも、その警備員たちによって追い払われてしまった。この人たちはそのために存在したのだ。正直安心したような、隣人が居なくなって寂しいような、複雑な気分になる。宿無しなのは同じ身なのに、僕はつまみ出されなかった。何かもやもやした気持ちが心を支配した。
その夜は心細さと警戒心とで徹夜を覚悟していたが、眠気に抗えず結局一時間ほどベンチに座ったまま寝た。意識を失ったと表現した方がいいかもしれない。いつの間にか目を閉じてしまっていたのだ。これはいけないと思って目を覚ます度に、荷物が揃っているのを確認した。それに満足すると再びまぶたが重くなる。それを何度も繰り返した。
待合室のベンチを寝床にして数時間。駅に活気が宿ってきた。時刻は午前6時。キオスクが開き、人々が動き出す。奇跡的に荷物は全てそのまま揃っている。日はすでに昇っていた。僕はその日一番のキオスクの客となり、冷たい水を一本買って目を覚ました。
さあ、リストビャンカへ行こう。